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2012/02/23

考え方 まとめ

おざなりにしてはいけないこと

考える

考えるというのは、それがどういうことなのかを考えるということであって、それをどうすればいいのかを悩むってことではない。

生きていることが素晴らしいとかつまらないとか思うことはできるのか、それはわからない。思うことができるのは、生きているからだが、生きているということが、どういうことなのかが分からないのに、思うということを当然のことのようには扱えない。

正しいこととは自分一人に正しいことではなくて、誰にとっても正しいこと
誰にとっても正しいこととは、みんなが正しいと思っていることではない



言葉

物が先か、言葉が先か
自分があるということにきがつくのと、言葉を話し始めるのとが同じ頃
ものではなくて言葉が世界を作っている
思い込みは、自分を個と思うところから始まる

言葉の意味は、目に見えるものではない。この現実の世界には存在しない

正しいことなんてないのか。でもそういう限り、正しいという言葉、その言葉の意味は知っている。正しさそのものがあるってことを知っている。



自分とは誰か

自分とは何か。これに回答をすることができても、その自分とはなんなのか。





死をどう考えるか

何をもって死とするか。目に見えるものが動かなくなったのを見て、死んだ、としているけれども、死体のどこに死があるのだろうか。死体から死を取り出して見ることはできない。

誰かの体が死んだとして、その誰かはどうなったのか。いなくなったと言うことはできるのか。

自分がないということを考えようとすると、自分があることに気がつく
自分について考えているそこには、必ず考えている自分がいるから

もし自分がないなら、自分がないと考える自分もない
自分がないということを考えることができないということは、自分はもしかして死なないということではないのだろうか

生死の不思議とは、ある、ない、の不思議
生=ある状態
死=ない状態
ない状態って、あるのだろうか
ない状態ってどこにあるのだろうか

死ぬのは怖いか?
死んだら何もなくなってしまうから?
でも、ない状態は考えることはできない

死にたいことがあるだろうか?
死んだらすっきりするだろうか?
でも死とは何もない状態なのだから、すっきりも何もない。


体の見方

自分が生まれる前、今の両親は両親ではなかった。
自分が生まれたから、両親は自分の両親になった
?体以外の部分の自分は両親から生まれてきたわけではない

自分が呼吸して、自分が食べるから、自分が生きているんだと思っている
でも、呼吸も消化も、意志して行っているわけではない
その意味では、この体を生きているのは誰なんだろう

野山にいって見るそれが自然か
遠くに行かないと見られないものが自然か
最も身近なものは、この体という自然だ。
この体は、自分ではなくて自然が作ったものだ

人は健康なときには、体というものは、自分で食べたいものは食べられるし、行きたいところへも行けるしで、自分の思うようになるものだと思いがちだ
しかし、病気になると自分の体が自分の思うようにならない、体というのがどうも単純に自分なのではないと思う。

病気になって気分が悪い、気分が悪いのは心なのか体なのかわからない
もともとそんなもの分けられないのではないか
見えるものの側から見れば体、見えないものの側から見れば心、心と体というのは、別々のものではなくて、どちらの側から見るかという2つの見方のことではないか

病気になって体が思うようにならないと感じるのは、体を所有物のように考えているからである。自分の所有物は自分ではないのだから、思うようになるはずがない



心はどこにある

心と体が1つのものならば、体が死んだら心も死ぬのか

もし、自分が自分の性格なのだとしたら、客観性をもって自分を見ることは出来ない。分析して自覚できるということは、自分を他人みたいに見ることができる部分があるということ。だから、もともとの自分とは、性格や感情とは別のものなのではないか

感情は感じるもので、精神は考えるもの。
移ろい変わる感じや思いについて、動かずに観察、分析して、そのことがどういうことなのかを考えて知るのが、精神というものの働きだ。
心のこの部分があるからこそ、人は、変わらないと思っている性格を変えることもできるのだし、その時その時の気分や感情に流されないですんでいる。

気分や感情というものはそれ自体が面白いものだ
どこからかやってきて、またどこかへ消えてゆく。
決して目に見えるものではないけれど、何かそれ自体が別の世界からの訪れであるかのように感じることもある。

自分とは、見える体の側から考えても、見えない心の側から考えても、とらえどころのないもの。何を自分と言えばいいのかわからなくなるほど、広がってゆくもの。その広がりは宇宙の果てまで続く。自分には果てがないもの、宇宙に果てがないのも同じことだと考えれば、自分と宇宙は同じものだと言える。



他人とは何か

自分というものが良く分かっていないのに、他人に言われたことに腹を立てたり、他人のすることに笑ったりしているのは、無駄な時間だ。

自分というものは、名前でも身分でも体でも心でもない。どこにもない。でも自分がないのではない。自分などないといっている自分が、まさにそこにあるからだ。
ないけれどもある、あるけれどもない。それが自分。その存在の仕方の不思議。

自分が自分であることに気がつくことができるのは、それ以前に、自分が自分であったからでしかない。

自分が存在しなければ、世界は存在しない。世界が存在するから自分が存在するのではない。世界は、それを見て、それを考えている自分において存在している。

自分が存在しないということは「ない」。だからすべてはやはり存在する。存在しないということはなくて、世界も他人も存在する。すべてが自分として存在する。

他人が痛がっているのを見て、痛そうだなと思う。悲しんでいるのをみて、一緒に悲しくなる。これだけでも不思議なことだ。そのとき、人はどこかで、その人は自分だと知っているのだ。
家族

誰から生まれたのでもない君にとっては、君の両親は、君のお父さんもお母さんでもない。彼らは、君が生まれたから「君の」親になったのであって、はじめから君の親としていたわけではない。
この事実を彼ら自身も忘れている。誰が生まれるかわからなかったのに、君がうまれたという、他人と他人のこの不思議な出会いの感動を忘れて、君のことを「自分の」子供だと思い込んでしまう。

動物の親にはない人間の親として役割があるとすれば、それこそが、他でもない、人生の真実を教えるということだ。子供よりも先に人生を生きているものとして、何が危険か、何が大事か、人はどのように生きるべきなのかを教えるという役割だ。
動物たちは動物たちの真実を生きているけれど、その真実とは何なのかを考えるということはしていない。真実とは何なのかを考え、それを言葉で人に教えるということができるのは人間だけなのだ。

両親の気に入らないところ、そういう人なのだと受け入れてみる。この人はどうしてこういう人になったのだろうと、彼らの人生を想像してみる。それこそが、子供が親から学ぶことができる人生の真実なのだ。

人生の一番最初に、普通の人がめったに遭遇しない大変な試練に遭遇したのならば、その試練を試練として認めることができるようになったといき、人よりも深く人生の意味を知るに違いない。



社会

何かを肯定したり否定したりできるということは、それがそれであるということが認められているのでなければならない。そうでなければ、それについて議論することはできないからだ。それがそれであると認めるということが、あらゆる議論の前提なのだ

考えるということは漠然と思うことではなくて、正確に知ることだ。

社会というのは、ひとつの観念であって、決してもののように自分の外に存在している何かじゃない。だって、何かを思ったり考えたりしているのは自分でしかないのだから、それが自分の外に存在しているはずはない。

それぞれの人がよくなる以外に、社会をよくする方法なんてあるわけがない。現実を作っているのは観念であるから、その観念が変わらなければ現実は変わらない。社会のせいにできることなどない。

日本という国が、国旗や国歌や国土以外のものとして存在しているのを見たことがあるだろうか。それらは、日本「の」国旗、日本「の」国歌、日本「の」国土であって、その日本なんてどこにもない。人々の観念の内にしかない。
なのに人は、「日本」という国家が、外に物のように存在していると思って、それが観念であることを忘れて、その観念のために命を賭けて戦争したりするわけだ。
この考えをすれば、これはとても不思議なことだ。観念のために命を捨てるなんて芸当ができるのは、生物のうちでも人間だけだからだ。
もともとの自分は誰でもなく、たまたま日本という国に生まれたから日本人なんだということを自覚しているのなら、この不思議さが良く分かるだろう。

社会の動きとは、つまり観念の動きであると見る習慣をつけよう。目に見えるものに捉われず、目に見えないものを捉えることができるようになってくるはずだ。



規則

規則で禁止されたり命令されたりしているそのことに、関心があるかないか。
もともと関心がない人に禁止したり命令することはできない。その人は禁止されているとも命令されているとも感じないからだ。

法律はそれをしてはいけないとしているのであって、それを悪いこととしているわけではない。

善悪を自分で判断すること、それができることこそが、本当の自由なのだ。
自由は自分の内側にしかない。




理想と現実

観念が現実を作っているのであるから、思いや考えが状況や環境を作り出すのであって、状況や環境によってその思いやその考えになるのではない。だから、理想こそが現実を作っている、理想を失わずにいるのであれば、それはすでに現実であるということ。

理想がなければ現実はないということ。目に見える人生や、人生を含むこの社会を、一番深いところで動かしているのは理想、目に見えない観念としての理想なのだ。

理想を現実にすることは不可能なんだと、失敗した理由として言うことがあるが、本当の理由はそうではない。目に見える現実だけを見て、目に見えない観念を見なかったからだ。この場合、人々の観念は、目に見える現実だけが現実だという観念だった。つまり、社会というものが何か目に見えるもののように思い、そこに戦争や貧困や不平等があるのは社会のせいだという観念だ。