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2009/02/27

「歴史を裁く愚かさ 新しい歴史教科書のために」

「歴史を裁く愚かさ 新しい歴史教科書のために」
西尾幹二PHP文庫

1 The Beginning
 前回に引き続き、歴史に関する読書から徒然述べる。前回が基本的な知識を得るのに役立ったのに対し、今回はその知識をどう生かすか、どう是正するかといった方法論を学ぶことができた。
 内容としては、この本の中で特に考えさせられたところを、白らの考えと照らし合わせて考察をする。また結びには、その考察をもとにこれから何ができるのかを提案し、自分の行動に還元することとする。

2 Study
(1)全般
 初めこの本を渡された時、「歴史を裁く愚かさ」という題名に嫌悪感を抱いた。著者の意見がどんなに正しいものであって、対抗意見がどんなに不当なものであっても、この言葉は何かを愚弄するものであると感じた。歴史教科書を正そうとする、まるで聖職者のような行いには適していないと考えていた。
 しかしながら読み進めていくうちに、そんな優しい気持ちや、水面を荒立てない日本人の国民性こそが、現代の日本における外交力の欠如、ひいては教科書間題に繋がっているのではないかと考えるようになった。現代世界においては、ただ優しく寡黙なだけでは上手くいかないのかも知れない。
 教科書問題の話に耳を傾けてみれば、作者の提示する資料が本物である限り、この本の内容には大いに賛成するところである。しかし教科書問題の根本を考える上では、大事なところで有耶無耶言ってしまう日本人の国民性の如何についても考慮しなくてはならないと考える。

(2)日本の教育の現状
 前回読書と同様に、戦後、日本がいかに教育の手を緩めたか、または緩めさせられたかを痛感せずにはいられない。さらに高度経済成長後、このような教科書問題を有耶無耶にしてきた国民性にも憤りを感じる。私の願いは、この状態をいち早く回復することである。継続して自分がしっかりと学び、またこの回復の一助となれるよう尽くしたいと思う。

(3)反日感情の現状
 まず本の中で私が気になった「他国における反日感情」について取り上げてみる。正直私はそんなもの、表面上や外交上唱えられているものだと考えていた。事実私の知り合いの中国人や韓国人もそのように言っていった。
 「歴史は地球上のどこにでも普遍妥当する客観的な法則につらぬかれているわけではない。さらに歴史は言葉によって支えられた不確かなものだから、国の数だけ歴史が存在する。」その作者の意見に賛成する。だからこそ私の中では、反日感情とは、みなが自分の利益を守るために言っているだけで、所詮は言葉の世界のことだろうと考えていた。

(4)反日感情をもった日本人
 しかし「底抜けに間抜けな日本人」と称し、作者が問題視するこの問題は、日本人が白ら反日感情を持ってしまうところに核心があると思う。この本を読んでみて、こんなことをわざわざ言わなくては分からないほど日本人が盲目になってしまったのかと驚いた。確かに私が高校生の頃受けた歴史教育では、旧体制派や戦争に負けた日本人のことは悪者のように説明されているように感じた。しかしそこから得られた教訓は、「負けたらこんな扱いを受けるんだな」といったイメージであって、そのまま日本人が悪いことをしたとは思うことはなかった。
 そこで周りの人に聞いてみることにした。すると私の両親の世代(昭和30年代)の人は、日教組の影響を非常に強く受けている。例えば授業中に戦争を起こした人たちは悪い人たちだと教えられ、どうして祖先の人たちを悪く言うんですかと聞き返せば、廊下に立たされていたりしたようである。昭和40年世代の方は、国旗、国歌や軍歌が急に巷からなくなっていったと話していた。しかし昭和50年から後の世代の人は(これに私も含まれるわけだが)国旗や国歌に対し疑問を持ったりする人も居たが、逆に教科書に日本が悪く書かれていても気にしない人も居て、人それぞれであった。
 このように周りの人の意見を聞くことによって、自分が当たり前だと思っていたことも、世代や考え方の違いによって大きく違うことが分かった。作者が憂うように、教科書に大きく影響を受けている人達もいるだろう。そう思い日本の将来を考えると、私にもこの教科書問題が身近なものに感じられた。今後「反日感情を持った日本人」の発生に恐怖を覚える。言わずもがな、これらの事象に対しては、作者の意見に沿うとともに、激しく回復を願うものである。

3 The Ending
 「日本が西欧と一緒に進歩の理念を信じ、近代的発展をとげ、しかる後にそれに幻滅し、ある種の成熟に達し、幼いナショナリズムをすでに卒業している。」私は作者のこの意見が好きである。
 しかしながら、この状態はそれに相応しい行動や考え方を伴わなければ、単なる傍観者や興味のないだけの人間になってしまうことを忘れてはならない。その状態は、まさにアイデンティティを失ったことに同義であり、「どうして日本人はこんなになってしまったのだ」、「戦争蹟罪意識」「心におけるカルタゴの平和」と椰楡されても仕方がない。日本人は今一度、白分たちの世界における立場というものを考え、それに相応しい行動をとるべきである。そうすれば、その中で歴史教科書問題も当然改善するべきであることが分かるだろうし、難しい国際杜会の中でどんなカードを切るべきかも分かるであろう。


c.f.
 ちなみに白分の国、自分のことを考えられるようになるためには、日本人は愛国心を持たなくてはならない。愛国心という言葉が嫌いならば、郷土愛、土着心などでもいいだろう。
 前回にも述べたが「目本人は戦前よりも勤勉でなくなり、徳性を失い、愛国心を忘れた」と言われる。私も確かにそうだと思うが、では逆に、戦後、目本人のアイデンティティについて教育したことがあるのかと問いたい。目本が問題なのは、教育制度そのものが変化して、どんなに高度に知識を学ぶことができても人格の研鎖や国家アイデンイテイの確立を置き去りにしている点である。
 今回もこのような考えから、これらの置き去りにしたものを取り戻すために、「公に尽くす心」と「目本人の心」を教育制度に盛り込むことを提案する。
 まずは「日本人の心」について。白然を敬い、畏れ、あがめる。そこから出てくる感謝の念、敬度で謙虚な心持ち、和を尊ぶあり方を教える。それが土台になって培われる規範、礼節、道徳。そういうもののトータルとしての日本人の心を教える。武道は必須の教育とする。
 次に「公に尽くす心」について。「日本人の心」が身に付き、白分の帰属する目本に対して誇りを持つことができたら、自然に養われると思う。補助的に武士道や騎士道を教える。これらの教育がいつか実現するよう、また目本人が誇り高い民族になるように、この本で得られた感性を持ち続けたいと思う。

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